朝倉城跡とは
朝倉城(あさくらじょう)は、高知県高知市にあった城だ。
現在は城跡が史跡として指定されている。
高知大学西側に近く約100mの丘陵で、頂上部には広さ20aの平坦面があり、高さ3mほどの急斜面によって囲まれている。これが朝倉城本丸一詰の段であったと考えられる。この本丸の周囲にはいくつかの塁一出丸跡と思われる平坦面がある。城跡一城山全体は北、国道33号線沿いに急斜し、南、東の国道56号線沿いにはやや緩傾斜であって、西は緩かな尾根伝いで延びている。この地に本山梅慶(清茂)がいつ居を定めたか不明であるが、おそらく天文初年(1532~)頃までのことであろうか。子茂辰と父子二代この地で吾南、高東の平野から浦戸湾西岸地区に拡がる勢力圏を形成し、本拠地嶺北方面を加えて土佐中部地域を支配した。1560(永禄3)年より開始された長宗我部、本山争覇戦に敗退した本山氏は、1563(永禄6)年1月朝倉城を焼いて本拠地本山に退去した。なお「長宗我部地検帳」によれば相当の家臣がこの地に居住している。また城跡の南東斜面には弥生時代の遺跡もある。
以前は重松城(しげまつじょう)と呼ばれていた。
本山氏(もとやまし)の居城で、長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が土佐を統一する際の大きな障害となった城だ。
本山城主・本山茂宗は、大永(1521~1527)年間に土佐中央部に進出した。朝倉城築城は天文元年(1532年)頃とも言われている[1]。その後、長宗我部氏や土佐一条氏と土佐国の覇権をめぐって争い続けた。
永禄5年(1562年)には長宗我部元親が3,000人の兵を率いて当城を攻め、本山茂辰はこれを撃退した。しかし翌永禄6年(1563年)に本山城に退去した際に当城は焼かれ、廃城となった。
天王ニュータウン
この日は2021年2月17日、高知では珍しい雪となった。
天王ニュータウンを出発し、朝倉城跡まで歩いて行く。
この日の最高気温は8度、寒さ対策で高知とは思えない完全防備の服装だ。
牧場を通過。
梨畑
道路を渡って針木の梨畑を歩いて行く。
さらに進み、針木浄水場を通過する。

ぶぶ屋
県道に出ると、以前ランチをした焼肉なかごしが更地になっていた。

この日のランチは、ぶぶ屋で、と思ったら、なんと既に終了していた(汗;)

CAFE LABO
そこでCAFE LABOに入る。
店内は混み合っていて、なんとかカウンターに座ることが出来た。
メニューはこんな感じ。
この日の日替わりランチは、煮込みハンバーグだった。
食後のコーヒーはスモールだが、チョコレートが添えられていて、ちょっと嬉しい。
東登山口
食事を終え、国立病院の前を通過。
朝倉城跡の東登山口に向けて道を入っていく。
東登山口に到着。
それらしい石垣がある。
朝倉城跡
朝倉城跡に到着。
ここは詰の段という、いわゆる本丸だ。
城八幡宮(しろはちまんぐう)に参拝する。
下山
登ってきたのとは反対側の道を下りていく。
まっすぐ歩いて行くと、どうも行き止まりのようだった。
途中の分岐を、右に折れる。
登り道の道標があったので、間違っていないようだ。
無事に西登り口に下りてきた。
尾根伝いの道
果樹試験場の尾根伝いに歩いて行く。
針木浄水場まで戻ってきた。
ここから先も、尾根伝いの道を歩いて行く。
郷社天満宮に参拝する。