中神社とは
中神社(なかじんじゃ)は、高知県高知市尾立(こうちしひじ)にある神社だ。
祭神は、中内記(なかないき)。
戦国時代に、伊予の河野一族である鴻森出雲守(こうのもりいづものかみ)がいた神森城(こうのもりじょう)が長宗我部に攻められ城主は自害、城から逃げてきた家臣は病に倒れたという。
戦国時代の土佐は、安芸氏、山田氏、長宗我部氏、本山氏、吉良氏、大平氏、津野氏の七守護がいて、幡多は一条氏の荘園でした。
本山氏と長宗我部氏の争いで永禄5(1560)年、本山方でこの城を守る出雲の守のもとに潮江城を攻略した長宗我部氏の大軍が攻め込んできました。しばらくの籠城の後、西の水源を絶たれました。しかし、夕方には馬に米を水に見せてかけるなどしてまだ水はあると見せかけ、水源の警戒をあきらめさせるなど知恵を絞りましたが、とうとう望みはなくなり城守出雲の守は自害し果てました。(説明板より抜粋)
鴻ノ森城跡から引用
鴻ノ森山頂には、その説明看板が建っている。
鴻ノ森(高知市) (2015/10/17) の記事画像
その武者達を偲び、祀っているのだそうだ。
この場所にあるのは、家臣の中内記の館が近くにあったため。
中内記は長宗我部に降伏し、この神社の祭神として祀られることとなった。
この神社は、此処から東に1.5Km程の所に標高が約300m程の鴻ノ森と言う山があるけんど、ここに本山氏の配下で城主・鴻森出雲守が守る神森城があったがですが、永禄4年(1561)頃、長宗我部元親の家臣・福留隼人・中島大和などに攻められ城は落城しちょりますが、その時、落人達が逃れて来たけんど、病で亡くなったと。
その落人達をお祀りしたのが、この神社の由来じゃそうで、此処に祀ったのは、鴻森出雲守の家臣・中 内記と言う武将の館がこの周辺にあり、御祭神として祀られちょるがじゃそうです。
その戦いは激烈で、白米城伝説として語り継がれている。
高ノ森攻めで、長宗我部方が、円行寺の水源を絶ったとのことですきに、今日は円行寺方面に駆け下りてみました。しゅっとながですね、この山から円行寺。その水源を絶たれた高ノ森出雲とその軍勢は悲惨な戦いをする訳ですが、その際に「白米城」伝説が生まれました。水を絶たれたお城で、まだ水が豊かなことを偽装するために、遠くから見えるようにお米を馬に掛け、あたかも水で馬を洗いゆうように見せかけた、という白米城伝説。全国的にもいくつも残るこの白米城伝説に彩られちゅうのが、この砦の落城物語なのであります。
八頭神社との関係
本山氏と長宗我部氏との戦いと言えば、本宮神社内にある八頭神社が思い出される。
https://niyodogawa.org/blog/outdoor/shrines-and-temples/shrines/kochi/10563/
この神社は8人の武者が祀られているが、同じ戦いで鏡川側に逃れた武将を祀ったのが、この中神社なのだ。
ちなみに鴻ノ森、高ノ森、神ノ森の表記が文献により使われているのでまぎらわしいが、それぞれの表記を尊重して部分部分で使っている。
中神社に参拝
この日はカフェテラスれんげでランチを頂く。
https://niyodogawa.org/blog/outdoor/food/11687/
その後、歩いて中神社を目指す。
中神社の裏手に出た。
社の正面に回る。
鳥居は真新しいステンレス製だ。
参拝を済ませ、樽の滝に向かった。
感想
小さな祠で見落としがちだが、長宗我部元親が土佐を統一した天下分け目の戦いと言ってもいい鴻ノ森城落城の歴史が残る神社だ。
無念の死を遂げた鴻森一族、そしてここに祀られた家臣達。
歴史の一ページとはいえ、400年の時を超えてこうして手厚く祀られているのは、とても感慨深いものだ。
ぜひ参拝して、歴史を感じて欲しい。