薫的神社 ⇒ ラジカル和尚が神社の祭神に??

薫的神社

薫的神社とは

薫的神社(くんてきじんじゃ)は、高知県高知市洞ヶ島町(こうちしほらがしまちょう)にある神社だ。

祭神は薫的大神(くんてきおおかみ)、つまり薫的和尚だ。

もともとは瑞応寺(ずいおうじ)という、高知で一番の寺の住職であった。

全国でも珍しい、仏教の僧が祭神となっている神社だ。

- 御由緒 - 薫的大神、薫的和和尚記、佐岡薫的神社、行事〈薫的神社〉伝説によれば寛永二年(一六二五)関白太政大臣・一条兼良の子孫、土佐の国主、一条兼定公の姻戚で随臣、池田中納言薫友卿を父とし、高知県四万十市の住人、康松安兵衛の娘、於萬の方との間に生まれた。十五才で出家得度し、二十二才まで御修行、香美郡土佐山田町楠目の豫岳寺(よがくじ)の住職となった。詩歌、俳句、絵画、彫刻にすぐれ、武術の稽古もしていたと伝えられ、身長は六尺の偉丈夫であった。後に洞ヶ島の禅宗曹洞宗瑞應寺(ずいおうじ)に移り、瑞應寺第十七世住職となった。

– 御由緒 – 薫的大神、薫的和和尚記、佐岡薫的神社、行事〈薫的神社〉から引用

優秀な僧であったが、2代藩主山内忠義(やまうちただよし)の戒名について意見が他の寺と対立した。

寺の座列でも不当な扱いを受け直訴しようとしたが、内通者により直訴はかなわなかった。

そして土佐藩から関所違反という無実の罪を掛けられ投獄される。

薫的和尚は7年間の投獄生活の末、49日間断食で抗議した後、両手の親指をかみ切り白無垢の小袖を引きちぎり血をで辞世を書き、自らの舌をかみ切って自殺した。

その遺骸を祀ったのが、この薫的神社だ。

- 御由緒 - 薫的大神、薫的和和尚記、佐岡薫的神社、行事〈薫的神社〉和尚の遺骸は、小高坂山東の谷の住人、郷士西内半次正義が密に貰いうけ、現高知市三の丸の私有地の畑の一隅に埋葬、光善芝と名付けて松を植え、牛馬を繋ぐことを禁じた。墓はいつしか忘れ去られていたが、山内主馬の実母光善院の命により半次の孫西内清太夫義茂の案内で発見され、瑞應寺境内、現在の薫的神社御本殿後方鎮座の霊光塔に改葬。後に薫的堂として瑞應寺境内の岩山に設けられるようになった。

– 御由緒 – 薫的大神、薫的和和尚記、佐岡薫的神社、行事〈薫的神社〉から引用

明治の廃仏毀釈の中で瑞応寺が廃寺となり、洞ヶ島神社に変わって、仏教僧が祭神という珍しい神社となった。

昭和24年に薫的神社となった。

- くんてきさん -〈薫的神社〉薫的神社は勝ち運の神、学問、スポーツ、の神様として、高知県全域に亘り、多くの信仰を集めている。

– くんてきさん -〈薫的神社〉から引用

境内

この日は、薫的神社の隣にある安楽寺に参拝した。

安楽寺 ⇒ かつて札所を争った菅原道真ゆかりの寺

そこから、薫的神社にやってきた。

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真新しい鳥居が建っている。

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扁額は、吉田茂の書だ。

吉田茂 - Wikipedia東久邇宮内閣や幣原内閣で外務大臣を務めたのち、内閣総理大臣に就任し、1946年5月22日から1947年5月24日、および1948年10月15日から1954年12月10日まで在任した。

優れた政治感覚と強いリーダーシップで戦後の混乱期にあった日本を盛り立て、戦後日本の礎を築いた。ふくよかな風貌と、葉巻をこよなく愛したことから「和製チャーチル」とも呼ばれた。戦後に内閣総理大臣を一旦退任した後で再登板した例は、吉田と安倍晋三の2人のみである。

吉田茂 – Wikipediaから引用

狛犬。

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神橋を渡る。

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手水舎。

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その奥に、ご神水のポンプがある。

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お百度石。

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「鬼頭良之助事 森田良吉建」と書かれている。

鬼頭良之助は、映画「鬼龍院花子の生涯」の鬼龍院政五郎のモデルになった人物だ。

ひまわり乳業株式会社 | 今日のにっこりひまわり大正6年、つまりこの百度石を建てた年、大阪から帰ってまだ2年目に、アメリカ人飛行家のフランクチャンピオンを招いて曲芸飛行ショーを敢行、飛行中墜死したのを悼んで柳原に碑を建てました。翌大正7年の米騒動の際には県民の苦しみを訴えて財閥宇田にお金を出させ、無料で米を配ったりしたそうです。「鬼頭米」と呼ばれ、これが土佐での米騒動を未然に防いだと言われちょりますな。社会労働運動で名高かった安芸盛(あきさかん)さんと意気投合し、労働組合を結成して大正9年に第1回メーデーをやったといいますきに、ホント、ただの侠客ではありません。その後、東京大相撲の興業をおこなったりと、主に興業分野で活躍し、昭和14年、大相撲興業の力士たちを高知駅へ見送った直後に駅で倒れ、翌年亡くなっちょります。

ビッシリ書いちょりますが、映画「鬼龍院花子の生涯」の鬼龍院政五郎は、この鬼頭良之助さんがモデルでございます。

ひまわり乳業株式会社 | 今日のにっこりひまわりから引用

参拝

拝殿。

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本殿。

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参拝後、摂社へ。

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おさばえ様とあわしま様だ。

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おさばえ様は、商売繁盛、農業豊穣の神様。

淡島神社の女神像。

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淡嶋神社 - Wikipedia淡島神は住吉神の妃神で、婦人病にかかったため淡島に流され、そこで婦人病を治す誓いを立てたとする伝承もあるが、これは、淡島が住吉大社の社領となっていたことによる後世の附会と考えられている。このことにより、淡嶋神社は、婦人病を始めとして安産・子授けなど女性に関するあらゆることを祈願する神社となった(ただし、加太淡嶋神社では少彦名命が医薬の神であるからと説明している)。

淡嶋神社 – Wikipediaから引用

あわしま様は女性の守護神で、安産、子授り、婦人病の御利益がある。

高知県内に何カ所か、淡島神社が鎮座しているようだ。

高知市歴史散歩和歌山市加太にある、女性の病気回復、子授け祈願で有名な「淡島さま(淡島神社)」を訪ねたことがある。鮮やかな朱塗りの神殿の内外に、すき間なく、たくさんの人形が奉納されていて驚かされたものである。毎年三月三日には、全国各地から寄せられた約二万体の人形を白木の舟に載せ、海に流す「ひな流し」を行っている。人の汚れや災いを人形に託して流し、厄払いをする行事である。

●市内中心部にひっそり佇む子守神社(はりまや町三丁目)
県内にも数カ所の淡(粟)島神社がある。江戸時代に、「淡島さま」の人形を入れた厨子を担いで、全国各地を巡った人々により淡島信仰が普及したといわれている。

高知市歴史散歩から引用

白椿神社。

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白椿神社〈薫的神社〉薫的様のお師匠様である牛的和尚をまつる神社。牛的和尚が白い椿が好きだったため白椿神社と名付けられた。視力回復のご利益があると言われています。

白椿神社〈薫的神社〉から引用

霊光塔

白椿神社奥の薫的和尚の霊廟である霊光塔に向かう。

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にらみ石。

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薫的和尚のたたりの石だ。

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松尾芭蕉の句碑。

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この鳥居から、階段を上がっていく。

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霊廟は、本殿のすぐ後ろにある。

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霊廟に到着。

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袈裟が供えられている。

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その脇にも、祠があった。

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馬詰親貞(うまづめちかさだ)の墓もある。

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山内一豊の家臣で、槍の名手だったそうだ。

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宝蔵院流槍術は約460年前に興福寺の子院である宝蔵院住職「胤栄(いんえい1521~1607)」が創始した柳生新陰流剣術と並ぶ奈良が発祥の古武道です。
宝蔵院流の槍は、通常の素槍に対し鎌槍と称する十文字形の穂先に特徴があります。この鎌槍は攻防に優れ、画期的な武器として「突けば槍 薙げば薙刀 引けば鎌 とにもかくにも外れあらまし」との歌が伝えられ、江戸時代を通して全国を風靡し、日本を代表する最大の槍術流派として発展しました。
この流祖・胤栄、二代・胤舜師のもとで修行し高弟として仕え、のちに土佐の地に宝蔵院流槍術をもたらしたのが土佐国馬詰(うまづめ)家の初代 馬詰権右衛門親貞(~1654)師です。そして御墓が高知市の薫的(くんてき)神社の裏山に現存していることが判明しました。

馬詰権右衛門親貞師顕彰宝蔵院流槍術奉納演武会から引用

坂を戻ったところに、高知城築城に尽力した百々越前(どどえちぜん)綱家(つないえ)の墓の墓が建っている。

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百々綱家 - Wikipedia関ヶ原の戦功により土佐一国を与えられた山内一豊に仕える。采邑7,000石を与えられ、綱家は安行と改名した。

土佐藩では当初、長宗我部氏が作った浦戸城を主城としていたが、山険しい荒波の当たる場所に建てられていたので、一豊は高知山に新たな城を築いたが、高知城の縄張りを行ったのは綱家である。

慶長6年(1601年)には江戸城の石垣修復にも山内氏の配下として参画している。

百々綱家 – Wikipediaから引用

その横に労働運動家の安藝盛(あきさかん)の墓。

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一般社団法人 考える村(公式ホームページ)戦国の武将、安芸国虎の裔と言われる。小卒後印刷工となって大阪に行き、加賀豊彦の門下に入り、のち荒畑寒村の教えをうけ、或は大阪印刷工組合を組織し、鈴木文治の友愛会と合して日本労働総同盟を作りその幹部となる。1926(昭和1)住友別子銅山争議に於て大矢省三と共に下獄(10ヶ月)その間、日本労農党が結成され安芸は獄中よりこれに参加し幹部となる。昭和3年以降高知県の社会運動は概ね彼の指導をうけた。

一般社団法人 考える村(公式ホームページ)から引用

圓應地蔵。

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参拝を終え、車を停めている小津神社に向かう。

小津神社 ⇒ 寺田寅彦ゆかりの神社

感想

寺の勢力争いの中、無実の罪で投獄され抗議の自殺というショッキングな行動を取った薫的和尚。

薫的和尚の死後、七日七晩大暴風になったという伝説も伝わる。

そんな和尚が勝ち運の神として神社に祀られるとは、なんとも高知らしい豪快さだ。

神社としては小規模だが見どころ満載なので、ぜひ参拝して欲しい。